べらぼう1話では遊女の悲しい現実を赤裸々に描いていましたね。
花魁は華やかだけど本当はとても努力が必要でお金がかかる職業でした。
儲かるのは花魁じゃなく彼女たちを囲っているお店ですからね。
さて花魁について疑問に思ったことを調べてまとめした
この記事では
- 花魁と遊ぶにはいくらかかる?
- 花魁の階級はどんなものがある?
- 花魁が習得しなくてはならないものは?
- なんし、ありんすってなぜ言うようになった?
- 帯を前で結ぶのはなぜ?高下駄を履くのはどうして?
についてまとめています。
【べらぼう】花魁と床入れするにはいくらかかる?
花魁は吉原でも数人しかいない最上級の遊女のことをいいます。
当時は他に京の島原、大阪の新町、長崎の丸山と歓楽街がありましたが、最上級の遊女は「太夫」
と呼ばれていました。
1700年代中頃から吉原では太夫が消滅し「花魁」と呼ばれるようになりました。
花魁と床入れするには初見で、と言う訳にはいきませんでした。
直接妓楼で取次はしておらず揚屋に花魁を呼び出して、そこで食事やお金を使う必要がありました。
2回遊んでその後にやっと床入れできる
一回目に初顔合わせとなるのですが、初回は花魁は離れたところに座り相手の顔も見ることも、話をすることもしません。
周りのものもじっと相手を品定めをするのです。気に入らなければ花魁に振られてしまうこともあるのです。
そして2回目。初回よりは少し距離は縮まりますが、やはり触れることすらさせてもらえません。
3回目にようやく馴染み客と認められ自分の名の入ったお膳と箸が用意されます。そしてとこいれができるようになるのです。
1話で鬼平がやりたいやりたいって騒いでたけれど
絶対無理だったわけね。
江戸では粋な遊び方をするのが良しとされるので
あれでは何回通っても無理だと思われ…
ただしこの話は吉原遊郭ができて間もない話でべらぼうの時代には幕府の財政も苦しくなっていてなかなか高額を払える客がいなくなって客足が減ってきたので値段も、しきたりも大衆的になっていたようです。
花魁と遊ぶにはいくらかかる?
江戸時代の吉原遊郭を紹介したガイドブック『吉原細見』によると、「新造つき呼出」の揚げ代(いわゆる指名料)は金一両一分とされています。これは現代の感覚で約10万円程度に相当すると思います。
あれ?意外に安い?と思った人も多いのでは?
実はこれで終わりではないのです。会う度に以下のような追加費用がかかりました。
- 芸者の出張費(座敷を盛り上げるための費用)
- 飲食代
- 交通費(船や駕籠など)
床入れするにはまた別に
- 馴染金(遊女へのチップ)
- 総花(従業員全員へのチップ)
がかかりました。
この総額は、現代で車を1台購入するのと同程度の出費に相当します。
また、月見や花見などのイベントの日は「紋日(もんび)」と呼ばれ、料金が2倍になる特別料金が設定されていました。
継続して通う場合は、一戸建て住宅を購入するほどの財力が求められたため、吉原遊郭に通うことは限られた裕福層だけの贅沢でした。
花魁自身は支出も多かった!
花魁は確かに他の女郎に比べれば高収入でしたが、とにかく生活にはお金がかかりました。
衣裳、髪飾り、座敷の家具や布団にチリ紙まで、全て自腹。食事は一食一汁が基本で他に食べたいものがあれば注文をしてその分は自分で支払います。
他にも面倒を見ている禿や振袖新造のお小遣いや勉強代、客へのプレゼントなどとにかくお金がかかり手元にはほとんどお金が残らなかったと言います。
なぜ花魁(おいらん)というようになった?
花魁ほどの上位になると禿(童女)や新造(水揚げ前の遊女)などが部屋子として世話をしてくれるようになります。
その子たちが自分の太夫を「おいらのとこの姉さん」と呼んだことから「おいらん」と言うようになったとの説があります。
漢字は花魁は後からの当て字と言われています。
【べらぼう】花魁の階級は?
吉原遊郭の遊女にはさまざまな位があり、それぞれに特徴がありました。以下はその概要です。
太夫
太夫は吉原でも特に位の高い遊女で、非常に限られた人数しかいませんでした。高尾太夫や揚巻太夫など、伝説的な名前が今も語り継がれています。しかし、宝暦年間(18世紀中頃)には太夫という存在は吉原から姿を消しました。
格子
格子も太夫に次ぐ高位の遊女でしたが、太夫と同様に宝暦頃にはいなくなっています。
花魁の登場
散茶
散茶はもともと太夫や格子より下位の遊女でしたが、太夫や格子がいなくなった後、高級遊女として扱われるようになりました。
座敷持
座敷持の遊女は、自分の寝泊まりする部屋とは別に客を迎えるための座敷を持ち、さらに「禿(かむろ)」と呼ばれる若い女の子が付き添っていました。
呼出し
散茶や座敷持の中でも、張り店(店先での客引き)を行わず、禿や新造を従えて茶屋で客を迎える遊女が「呼出し」と呼ばれました。この呼出しが、本来「花魁」と呼ばれていたと考えられています。そのため、位の低い遊女は花魁とは呼ばれませんでした。
このように、吉原の遊女たちはその位や役割に応じてさまざまな呼ばれ方をしていました。
【べらぼう】花魁になるのはどんな人?
花魁になるには単に容姿が美しいだけではなれませんでした。
子供の時から茶道、華道、香道、書道、書画(墨絵)、和歌、漢詩、囲碁、将棋など。歌舞音曲面では琴や三味線、唄、舞踊のほか胡弓、鼓などの稽古を仕込まれます。
特に客との会話のために教養が必要だったので学者に師事したりとウィットで楽しい会話ができるように努力をしていました。
見込みのある禿は徹底的に仕込まれます。なのである程度の年齢になって廓に入ってきた子供には花魁になるのは狭き門となっていました。
吉原遊廓ではなんでも言うことを聞くような女性ではなく、一本筋の入った気性の花魁が人気があったようです。
なので器量がいいのはもちろんのこと、頭がよく、機転がきく幼少期に幼少期から入った子供が花魁候補となるのです。
花魁は時代のファッションリーダーだった
遊女だと言っても周りから蔑まれたり、差別を受けることはこの時代は少なかったようです。
なので喜多川歌麿の描いた花魁の錦絵は着物の柄や着こなしはを見本とされ若い女性にも人気がありました。
今で言うところのファッションリーダーだったのです。
庶民は遊女たちがみな望まずにこの仕事をしていることを理解していたようです。
なので遊女を妻としても「教養もあり、綺麗な奥さんをもらって羨ましい」と思われていました。
遊女がありんすなどの特徴的な言葉を話すのはなぜ?
ドラマや映画で遊女が独特の言葉を話しているのをよく聞きます。
〜でありんす。
これは廓言葉と言って吉原遊女独特のものです。
なぜこのような言葉を使うかというと方言と使うと野暮ったく、客と話が通じないことがあります。
それでは男性の夢を壊す、と言うことで廓言葉を使う習慣ができました。
いくつか廓言葉の例を挙げておきますね。
私→わっち
あなた→主さん
〜です→ありんす
〜ではありません→〜ありんせん
〜ください→なんし
入りません→いりんせん
〜してください→〜いたしんす。いたせんしょう
さようなら→おさらばえ
なじみ客→おゆかりさま
確かに!なんとなく優雅に感じる〜
花魁が帯を前で結ぶのはなぜ?なぜ高い下駄を履くの?
花魁は帯を前で結んでいますよね?それは一体なぜなのでしょうか?
解きやすくするためなのかな?と自分は思っていたのですが、それは違っていたようです。
より豪華なもので自分を格上に見せるため
花魁が身に着ける装飾品や着物は、なじみ客からの贈り物や、自ら遊郭から借金をして用意したり、稼ぎを貯めてあつらえた一級品ばかりでした。
そのため、帯や着物は自身の価値を示す重要なアイテムであり、最も映える着こなしが追求されて帯を前で結ぶようになっていきました。
一夜妻という意味を込めて
江戸初期ではまだ帯は細く前で結んでいました。江戸時代に入ると次第に帯は太くなっていき、未婚女性は豪華な刺繍などを後ろで結ぶようになっていきました。
既婚女性が細い帯を前結びで着用していた時代がありましたが、前結びの帯は家事や日常生活の邪魔になるため、次第に廃れていきます。
この習慣が吉原の町に残り、「家事や生活から離れた“一夜の妻”」を象徴する演出として、帯を前で結ぶ風習が生まれたとされています。
高い下駄を履くのは花魁道中のみ
体の着物のバランスを取るため
花魁の髷には豪華でたくさんかんざしをつけていますよね。それで頭が大きく見えてしまい不恰好になってしまいます。それをバランス良く見せるために高下駄を吐きました。
とっても重くて歩きづらいのですが、ファッションリーダーとしてはそんな格好で歩くわけにはいかなかったのでしょう。
長い着物を引きづらないようにするため
花魁道中できる着物は裾がないので裾が地面につかないようにするためでもあります。
道中の花魁がよく見えるようにするため
花魁道中にはたくさんの人が参加します。傘を飾る男衆や、振袖新造や禿など。
通行人もたくさん見るために集まるので周りから見やすくするために一役買っていたものと思われます。
ある意味エレクトリカルパレード?w
客にあんな花魁と遊んでみたいと憧れさせるために人一倍気を遣ったんだろうね